別れのための子守唄

 就職するのでアルバイトを来週に辞めるのだが、会うのが最後になる人たちがちらほら現れ始めた。今日は、私が慕うIさんと被る最後の出勤だった。
 
 お昼ご飯を食べたあとに頃合いを見てIさんの元に行き、挨拶をする。百貨店で買ったカステラと紅茶、それに昨晩したためた手紙を入れた紙袋を渡すと、彼女は大層喜んでくれた。コロコロと変わる表情は見ていて楽しい。毎年手紙を送らせてください! と言ったら、彼女は口元を綻ばせて住所を教えてくれた。やりとりをしたいのならスマホで連絡先を交換すればそれで事足りるから、今どき手紙を送ろうとする若者は少ないだろう。スマホひとつで繋がれる時代は、便利だと思う。でも、逆にいえばメリハリがなくなったなぁなんて思ったりもする。完璧で、綺麗な別れは少なくなった。別れたあとも、電話やメールを使って、自分の努力次第で関係を存続させることは可能だから。
 
 Iさんと話していると、通りかかったスタッフの誰かが私を見て声をかけてくる。これからもがんばってください。またどこかで。ありがとうございます、と私は答える。でも内心では、この人とは今後会うことはないだろうから、またっていつ? なんて考える。
 
 送別会ではまたいつか。結婚式ではおめでとう。お葬式ではご愁傷様。この世界には状況に適したあらかじめ決まっている定型文があって、当たり障りのない言葉として活用される。とても理に適ったやりとりだと思う。言う側もいちいち考えていたら疲れてしまうし、言われる側も返しやすいのは楽でいい。
 
 でも少し前までの私は、二度と会わない人とまた会うふりをするのは馬鹿みたいだと思っていたし、二度と会わないのが嫌というならそれなりの努力をするべきだと思っていた。会いたい意思を示すために「また」と言うのが、嫌いだった。そこで嘘をつくべきじゃない。仕事関係でなくても、なんかでわっと盛り上がって、またねって言って、それっきりになることはいくらでもある。ああいうのも好きじゃなかった。本当に楽しかったら、二度目があるようにセッティングするはずだ。
 
 でもその正しさに、私たちの多くは耐えられない。少なくとも私は耐えられないから、決まり文句で嘘をつくし、つかれてもどうしようもない。
 
 この世にあるたくさんの「またね」は嘘。「see you」も「再見」も嘘。私たちの多くは二度と会わない。人々はただ目の前を通り過ぎる。なぜなら立ち止まっているだけの価値がないからである。でも私はそれに耐えられない。正しくあきらめて、「そうであるなら、さようなら」と告げることができない。だから嘘をつくし、その嘘を許容する。
 
 やたらと多くの女性と親しくなる男の人が、初対面の相手と快適に過ごす工夫について書いていた。親しい関係のふりをするのだ、と彼は言う。僕らの関係は永続的に続く。今日はその最初の日だというふうにふるまうんだ。誰だってその日かぎりの殺伐とした関係なんて求めてはない。いや、求めてるよ、でもそのさなかにそれをあからさまにされることは求めてはいない。だから今度食事に行こうと言う。また会ったらああしよう、こうしよう。そう言う。そうすると楽しい。
 
 わからないなぁと思った。それは誰かが今度といえば、今度があると信じられる人にだけ適応される心理だ。そんな芝居が完全に遂行されるはずがないし、嘘の気配を感じないはずがないじゃない。会ったばかりの人でなくても同じことだし、友だちであっても同じこと。
 
 でも仮に、目の前で笑って話している誰かが私を排除しようとする気配を感じたとき、それに従うほかの選択肢は見えない。相手はこれきりにしたいのだと察したら、それに気づかないふりをしていいようにさせるほかに、私に何ができるだろうか。犬みたいにお腹を見せてもっと遊んでくださいと乞えば何かが変わるのか。
 
 私は、都合のいい嘘を頭から信じていい子にして待つような、善良で愚直な馬鹿にはなれない。嘘つきはいやだと思うけれど、私の欲しい嘘は私のみっともない願望をむきだしにしてしまう。だから私も嘘つきになってそれを隠さなきゃいけない。またね。またね。次の機会に。またいつかどこかで。私は、なんて嘘つきなんだろう。
 
 砂時計の砂がさらさら落ちるのを眺め、ああ終わるんだなって思った。残された僅かな時間を使ってIさんと話していて、彼女との関係をどう締めくくろうかと考える。綺麗な終わり方があるはずだって頭を働かせた。言葉が思うように出てこない。
 
 そろそろ行きます、と私が言うと、負けるなでも身体には気をつけるんだよ、とIさんは言う。なんとかするよ、Iさんこそ身体には気をつけてねください。うん、お互いにね。
 
 Iさんが本当に優しい目で私を見つめているから、声がふるえた。Iさんの目に私の姿が映っている。なんとなく、その眼に私が映っていますか、と訊いてみる。うなずいたIさんに、それが未来の光景なら嬉しいです、と続ける。また私とIさんは出くわすことになるんですよ、きっと。
 
——それは嘘かもしれない。手紙のやりとりはあるだろうけれど、また会うかなんてそんなのわからない。
 
 じゃあ頑張らなくちゃね、とIさんは答える。またどこかで会ったとき、楽しく話せるように。心底同意だった。Iさんと再開したときに、誇れる自分でいたいなぁと思う。また会える未来があるのなら、その時は頑張っている自分でいたい。だから頑張りたいと思う。道は違うかもしれないけれど、それぞれ頑張っていけたら一番いいはずだ。そういう未来を願って、一緒に頑張りましょうね、と口にした。
 
 いいね、って二人して笑う。その笑いは別れで、底なしの陽気さではなかったけれど、でもやっぱりかけがえのない温もりのある、そういう笑いだった。今度こそ、それじゃあねと言うと、うんと答えて、Iさんは腕を上げる。そして互いの手を思いっきりひっぱたいて打ち鳴らす。ぱあん、という景気のいい音が遠い空に響いて、そしてその下で私たちは見事に、立派に、はっきりと別れていった。
 
 一緒にがんばろう。こういうのでいい、こういうのがいい。

終わる関係でもいいじゃないか

 就職が決まったので退職したいと、アルバイト先の上司に伝えると、最初は名残惜しい顔をされたがあっさり承諾してくれた。転職するきっかけを訊かれたので正直に「いつまでも子供のままじゃいられませんから……」と、答えると「その話を、うちの社員たちにも聞かせたいものだね」と返された。私の職場は連携力とかあえて綺麗な言葉を使うなら絆とかがなく、非協力的集団だった。自分が規定したやるべき業務の範囲外のことがある場合、動ける人が解決することがほとんどで、特定の人が何でもかんでも負担を背負うことになる。ちなみに私はそちら側の人間だったので利用させられている気持ちがずっとあった。ところどころ部品が無くなって機械は壊れているならば、機械を買い換えるか部品を交換するべきだ。潤滑油を用いて無理矢理稼働させたところで解決にはならんよさもありなんという心境だった。社員の中にもやるべきことを増やしたくない考えの人が少なくない数いて、生じた問題を報告しても「ああそうですね」で流される異常。周りの社員たちに嫌気が差している上司に、私は心の底から同情する。後ろ髪を引かれる思いが無いわけじゃないが、自分の方が大事だ。あとは自分たちでなんとかしてくれー!
 
 というわけで、退職である。退職に必要な手続きは済んでいるので、あとは流れに身を任せて4日ほど出勤すれば新生活の始まり。やらなきゃいけないことといえば、お世話になった人にちゃんと別れの挨拶をするくらいだろうか。と、考えていた矢先、顔を合わせたら時々話すくらいの関係だった先輩からご飯に誘われたので、仕事終わりに回転寿司に行くことになった。
 
 なんだかんだ三時間くらい話していたが、内容については省略。後日、アルバイト先に行ったとき「実はあの先輩から誘われてご飯を食べに行ったんだ」と、自慢げに同僚に話すと、しばし私の顔を見て「ずいぶん楽しそうに話すな」と言う。首をかしげる私に、彼は言葉を続ける。
 
「もう会わないかもしれない相手なのに、って思ったんだ。だってお前とあの人って特別仲がいいってわけじゃないだろ。おおかたその場だけで終わってしまうよな。たぶん二度と会わない。そんな泡みたいな関係なのになんだか楽しそうに話しているから、ちょっと不思議だった」
 
 私は少し考えて説明する。みんなが深い関係ばかりを大切にする気持ちが、実はよくわからない。その場かぎりだとか、表面上だとか、そういう淡い関係が、なんだか偽物みたいに言われることがあるけれど、どうしてかなと思う。その場かぎりにはその場かぎりの礼節や親切があって、それを交換できた相手はよいものだと思う。同じその場かぎりでも好ましい相手とそうでない相手がいて、好ましい相手にはちゃんと好意を示すべきだし、相手からそれをもらえたら嬉しいと思う。
 
 仕事がらみの知り合いとか、集団にいるからなんとなくやりとりがある相手とか、ネットでしか繋がっていない相手とかもそう。話題は限られているけれど、その中にもよい関係はある。自己開示が多い関係だけがよい関係なのではないし、信頼感を強く持てる相手だけを尊重するのもおかしいと思う。
 
 ろくに知らない人の、ささやかな親切はめちゃくちゃ大事。それで救われることだってある、少なくとも私は、お互いになんとなく親切にできる相手がいっぱいいる世界を望んでる。たとえばひとりの恋人と何でも話せる三人の友だちがいて、あとは全員敵だという世界に放りこまれたら、愉快に生きられる気がしない。
 
 話し終えて、同僚を見る。彼は少し笑って言う。とても健全だ、健全で好ましい。でも世の中にはその世界に住んでいる人もけっこういると思うよ。深く愛しあうひとりの恋人と何でも話せる三人の友だち、あるいは全幅の信頼を寄せる伴侶と両親と子どもがいて、それ以外はみんな敵だという世界に。もしかすると自分だけがいて、あとはだれもいない世界に。そういう世界に住んでいる人にとって、泡のような関係はただ煩わしい義務にすぎない。彼らにとって、泡のような関係の相手はほとんど人じゃない、景色の一部のようなものなんだ。だから人じゃないみたいにあつかわれることがあっても、無防備に傷つかないように。
 
 私はおかしくなって笑った。私はもうそんなにやわらかな人間じゃない。それに、少数の親しい人や自分ひとりだけできれいに完結できる人を、私は少しうらやましいと感じる。

旅立ちなんて綺麗なものじゃない

——子供の頃、なんになりたかった?
なんにもなりたくなかったわ。とにかく大人になんて、なりたくなかった。
——今は?
今も。
 
 何かをする気になれず、懇々と本を読む日がある。それが今日で、紅玉いづきの『2Bの黒髪』を延々と読んでいた。大学受験に失敗した女の子が、曖昧な気持ちを持ったまま再受験をするお話で、『19』というアンソロジー小説に収録されている。当時、自分と同じ年齢がテーマということで購入したのだが、その巡り合わせは本当に運が良かった。

 専門学校を卒業してからアルバイト暮らしを続けてきた私だが、覚悟を決め就職活動を始めた。そして先日、無事内定をもらったのだった。11月から正社員として都内で働くことになっている。接客のお仕事、むろん本当になりたかった職業ではない。
 
 なれるならという話であれば、私は小説家になりたかった。お願いしてなるようなものではないし、そんなことこっちから願い下げだけど、私は小説家になりたかった。

 でも私は、大人なんだ。行動の裏には常に、責任ってやつが付きまとい、あるいは求められる。だから、アルバイトをしながら死んだように小説を書いていたとしても、親や世間からは虐げられた目で見られても、それはもっともだとしかいいようがなかった。自分なりに必死にやっているつもりだったが、いつまで子供でいるのだと怒られているようで、なんだか悪いことをしている気分だった。ゴミみたいな人間が、ゴミを生み出している。お前の小説はゴミだ。そんなことを父親に言われた。わかっていた。望んだのは私だ。でもゴミでも良かった。ゴミでもいいから、私の頭の中に住む彼らには笑っていて欲しかった。それだけだった。それが生きる理由とすら思えるほどに。

 一人で生きたい、と急に思い立ってからは早かった。このままではやるべきことも、やりたいことも、どちらもいい加減になっていってしまう気がした。私は自分のことを信用していないので、動けるときに動いておきたいと思ったのだ。後手に回ると、止まって動けなるかもしれない。動くのは疲れるけれど、怠惰もまた同等かそれ以上に疲れるということを私は知っている。
 
 夢は捨てたくない。少し遠のくかもしれないけれど、必ず叶えたい。その過程に、独り暮らしがあったり、正社員としての責任があったりするのを思うとむしろ、ドキドキしてくるようではないか。
 
——子供の頃、なんになりたかった?
なりたいものなんてなかった。早く死にたかった。
——今は?
小説家になりたい。少し回り道をしてしまうけれど、小説家になりたい。
——死にたいって気持ちは?
あるよ。楽しい話ばかりじゃない。だって人生ってつらい。朝が来て欲しくない。でも、残酷な世界の中でこそ時偶訪れる素晴らしい瞬間に涙が出そうになる。それを美しいと思う。
——だから、君は。
そう、だからこそ頑張らなくちゃ。同じように朝が来て欲しくない時がある人を、応援したい。負けるなって。いっしょに頑張ろうって。
——欲張りだね。
考えたことがないよ。
 
 人の情熱に触れると自分も頑張ろうと思う。それが小説の中の登場人物のものであっても、何ら変わらない。